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平公(へいこう、? - 紀元前532年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前557年 - 紀元前532年)。姓は姫。諱は彪。悼公の子。悼公が早世したため幼くして君主となったが、羊舌肸(叔向)などの賢臣の補佐を得て晋の覇権を維持し、大過なくこの世を去った。 紀元前557年、平公が即位したばかりの頃、湛阪の戦いで楚に勝利した。 紀元前555年、平公は斉と争い霊公を破って臨淄まで攻め込んだ。翌紀元前554年、帰国の途上で正卿中行偃が死去。 欒盈を追放して六卿の力を弱めようとしたが、欒盈はのちに亡命先から帰国して叛乱を起こした。欒盈の軍は瞬く間に首都・絳に侵入し、平公は自殺しようとしたが士鞅(范鞅)にとめられた。のちに叛乱軍は正卿の士匄(范匄・士鞅の父)によって鎮圧され、欒氏の宗族は滅ぼされた。 紀元前573年、士匄の死後、趙武が正卿になった。趙武は賢臣・羊舌肸の献言をよく聞き入れ、徳義をもって国を治めたので晋は栄えた。次の正卿の韓起の代になってもそれは同じであった。 晋が宋において「(多国間軍縮平和協定)」を主催し、初めて南方の大国・楚との和議がなったあと、紀元前544年〔史記世家、晋世家 第九〕、呉から聖人として名高い季札が晋にやってきた。季札は「晋の政権はこの三家(趙・魏・韓)に帰するでしょう」と予言した。 羊舌肸が秦の使者〔史記世家、晋世家 第九には紀元前539年に斉の晏嬰が来た際、これと似た会話がなされている。〕の接待役を命じる際に、子朱と争った。平公はこれを聞いて「晋は盛んになるだろうか。臣下の争うところは重大である」と(それだけ国事に真剣になってくれているのだ、と判断して)言うと、側に控えていた師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳ではなく力で競争しています」と言った〔左伝、昭公八年(紀元前534年)には、平公が「石がものを言ったのはなぜか?」と問う同様の会話がある。〕。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平公 (晋)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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